スマイリードリームができた理由
元代表 櫻井雅美HISTORY
2000年最愛の息子「康貴」を病気で突然亡くしました。そして、ここ武豊町でネグレクトにより3歳の女の子が餓死するという事件が起きました。私も強く感じていた社会からの「孤立感」「疎外感」子どもは可愛いのにイライラしてしまう自分への罪悪感。外でニコニコあいさつをするママたちも同じ悩みを抱えているんじゃない?そんな想いから始まりました。
子どもが生まれるまでは私が一番だった
今は子どもが一番 自分はいつも後まわし
そんな生活に疲れたら ちょっと休む
そして自分を褒めてみる
(NPOになる前にHPに書いてあった言葉です)
夢じゃないんだよね 現実なんだよね
2001年3月24日
最愛の息子「康貴(こうき)」が
突然亡くなりました
2000年4月13日に生まれた彼は
桜を一度も見ることなくこの世を去りました
ICUの外からみた空は真っ青でした
お葬式の日、半田斎場に向かう途中
青山武道館の桜がとてもきれいでした
本当に突然。。。
原因は「気管支喘息重積発作」
まだこの世に生を受けてたった11ヶ月でした
1月に「喘息」と診断されてからわずか2ヶ月
中程度の発作が3回。。。
入院する事もなく
通院と薬でおさまる程度でした
3月24日の昼、突然大きい発作が起きました
出かけ先で咳が出始め
いつもの病院へ行くと
「これは入院だなぁ。。。」
吸入を嫌がる康貴を見て先生は
「もういいから病院へ行って」
「入院」という言葉にショックを受けつつも
車で入院設備のある病院へ
病院へ向かう途中みるみる様態が悪化
チアノーゼが出て呼吸困難に
病院に着いたときには
素人目に見てもかなり悪い状態でした
救急外来に入っても
小児科の先生はなかなか来てくれません
電話による指示ばかり
スタッフはカーテンの向こうで
バタバタ走ってる
何を聞いても
「もう少し待ってください」
何の説明もなく
カーテンで仕切られた部屋の外で
立ち尽くすだけ
部屋の中からは「ママ~」という
か細い声が時々聞こえてくる
「今からICUに向かいます」
低酸素によるひきつけをおこした
という説明でした
ストレッチャーで運ばれていく康貴を見て
愕然としました
目はうつろで呼んでもまったく反応がなく
だらんとした状態
まさか・・・。
とんでもないことが起こっている
でもまさか・・・。
怖くて考えることができませんでした
考えるとそれが現実になってしまいそうで
怖かったのです
すごく長いときが流れたような気がしました
やっと会えたときには
呼吸器をつけられ意識があるのかないのか
それでも最悪の事態は免れたという安心感
それとともに
これからこの子が
どんな姿になっても育てなくては
と覚悟を決めた瞬間でもありました
「説明をします」
部屋を移動しようと病室を出ようとしたとき
ピーーーーーーー
今でも耳に残っているあの音
心停止。。。
まるでドラマを見ているよう
看護師さんや先生が出入りして慌てている
「外に出てください!」
絶対に嫌だ!
もうさっきみたいに
何が起こっているかわからないのは嫌だ
ベッドにしがみついて離れませんでした
「いさせてあげてください」
一人の看護師さんが先生に頼んでくれました
夢?
いや、夢じゃない。
現実なんだ
「離れてください!」
バンッ!
本当にベッドの上で体が跳ね上がりました。
心臓マッサージと電気ショックを繰り返し
どれくらい時間がたったのかわかりません
涙を流しながら
心臓マッサージをしている先生を見て
ダメだ・・・
そう思いました
「やめてください」
病院へついてからわずか数時間でした
お母さんに電話しなくちゃ
お父さんは九州に行ってるんだった
どうやって連絡取ろう
ICUの外からみた空は真っ青でした
なぜかわからないけど
とても空が青いことに腹が立ちました
生きることが辛い日々
呼吸の仕方がわからない
食べることの意味が分からない
何のために生きているのかわからない
小児科の先生に
心療内科を勧められ行ってみました
驚くことに小児科の目の前
当時、授乳期だったので
子どもの泣き声を聞くだけで
おっぱいがとまらなかった
小児科の先生の無神経さに呆れました
今思えばあの時は
感情がマヒしていたように思います
亡くなった直後の激しい感情から一転
すべての感情がフラットになっていました
悲しい、寂しい、楽しい、嬉しい
どれもあまり感じなくなっていました
カルテからほとんど目を離さず
とりあえず、薬を出すので飲んでください
という一言で行くのをやめてしまいました
当時3歳だった長男
悠貴がいたことが唯一の救いでした
子どもが保育園に行っている間は
ずっと寝ていましたが
不思議なことに
子どもの世話だけはできるんです
ママ友と笑って挨拶していました
保育園の送り迎えでも
子どもと電車を見ながら
散歩をしているときも
ごみを捨てに行く時も
買い物に行く時も
普通にしていました
でもね
夜になると
悠貴が保育園に行ってしまうと
突然涙があふれて止まらなくなり
呼吸の仕方が分からなくなり
過呼吸で倒れる
そんなある日
横になって見ていたワイドショー
武豊町で起きた虐待事件を報道していた
信じられない
私は子どもにどんな姿になっても
生きていてほしいと思ったのに
なんで殺すわけ?が立ちました
ネグレクト
ネグレクト 聞きなれない言葉でした
「育児放棄」程度の情報
新聞でもワイドショーでも全国版で取り上げれていました
段ボールに入れて食事を与えない
弱っていく様子を見ながら生活をしていた両親
私の中では「怒り」でしかありませんでした
しかしある時ふと思いました
いつから子どもをかわいいと思えなくなったんだろう
誰か助けてくれる人はいなかったのかな
社宅だったのにだれも気が付いてくれなかったの?
実家も近かったのに?
なんで???
もし
もっともっと前に誰かが様子が変だと気付いていたら
もっともっと前に誰かが声をかけていたら
もしかして
こんな事件起こらなかったんじゃない?
事件になるまでになにがあったんだろう
亡くなった子は悠貴と同級生になるはずの子でした
想いを吐き出す場所
家族はみんな私を腫れ物に触るように扱いました
それくらい私の様子が痛々しい状態だったのだと思います
そんな家族に辛い思いを話すこともできず
でも、辛い気持ちは心の中でパンパンに膨れ上がっていました
そんな時
インターネット上で「日記」(現在のブログ)があり
誰にも言えない辛い思いを書いてみることにしました
コメントやメッセージをたくさんいただきました
私も子どもを亡くしました
子どもが元気なのが幸せなことだと気づきました
泣くことしかできなくてごめんなさい
子どもが元気で大きくなるのが当たり前ではないんですね
ちょっと気持ちが軽くなったような気がしました
心に少し余裕ができました
悠貴の様子に目を向けることができるようになりました
だんなさんも辛かったんだって気づきました
毎日、仕事に行っていたけど辛かったよね
私の両親も辛かったでしょう
みんな
私の方が辛い思いをしているから我慢してたと思う
だんだん日常の出来事を書くようになりました
すると
「もしかしてご近所さんじゃないですか?」
「実は私も子どもを亡くしたんです」
新しい仲間との出会い
同じ時期にお二人からメッセージをもらいました
一人は出産時のトラブルで
人工呼吸器をつけなくていけなくなった子のママ、ヒロさん
私よりもちょっと前にお子さんを亡くされていました
もう一人は子どもを死産したママ、あっこさん
何度かメールのやり取りをして会うことになりました
当時は珍しいことだったと思います
主婦がネットで知り合って会う
初めて会った気がしませんでした
会ったその日からたくさん話しました
ヒロさんはアロマを
あっこさんはネイルをやっていました
せっかくだからネイルをやってもらおう
本当に軽い気持ちでやってもらいました
気分が華やかになりました
ちゃんと服を着替えてメイクをしよう
(まだ、体調が悪くて1日だら~っとしていた日もあったので)
ママ友に「爪かわいい~♪」と言われ嬉しくて
なぜか手の動きがちょっと軽やかになったり
ネイルしただけでこんなに気分が変わるんだ!
ヒロさんのおうちに行きました
アロマの香りがふわっとしました
なんだかとても優しい気持ちになりました
香りが人の気持ちを変えるんだ!
想いをカタチに
何度か会っているうちに
「私たちみたいなママって他にも結構いるんじゃない?」
ホームページとか作って発信してみようか
こうしてスタートしたのがSmileyDreamです
私の思いの中には
「康貴」を忘れないためにも何か残したい。
やんちゃ坊主二人の子育てはストレスでいっぱいでした
自分の時間が欲しい!
自由な時間が欲しい!
ゆっくりご飯が食べたい!
ゆっくり寝たい!
ぽっかりと空いてしまった時間
何をしたらいいのかわからず
いっぱいやりたいことあったのに
思い出すのは康貴と一緒にいた時間ばかり
幸せだったことに気付いていなかった
たった11ヶ月という短い生涯だったけど
私達に抱えきれないほどのたくさんの思い出と
たくさんの幸せをくれました
少しでもたくさんの人にこの世に
「康貴」という子がいたという事を覚えていてほしい
康貴がこの世に生まれた「意味」を私が忘れないように・・・
そして
もう二度と武豊町で虐待事件を起こしたくない
きっと当事者の私たちにもできることがあるはず
子育ては大変だけど辛いことばかりじゃない
同じ時期に同じ場所で子育てをする仲間は奇跡の出会い
あとで「あの時はたいへんだったよねぇ~」って
笑って話せるようになりたい
こうしてSmileyDreamがスタートしたのです